オクイチの日記

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楽しく読める!ヒトラーの『我が闘争』5

【ガキ大将】

この頃、私におそらく初めての理想の形が作られたようだ。

戸外でのバカ騒ぎや、学校への回り道や、特に母にいくらかのつらい心配をさせた非常にたくましい子どもたちと一緒に遊んだ私は、部屋に閉じこもってばかりいる子どもとは全く違う成長を遂げた。だからそのころの私はまた、自分の将来の職業について、真面目に考えたことがほとんどなかったが、もともと父の人生経験には一度も同情したことがなかった。

そのころ早くも私の演説の才能は、私の仲間との白熱する論争の中で、訓練されていたのかなと思う。私は学校では成績がよく、非常によく勉強していたが、その上にかなり扱いにくいガキ大将になっていた。私は暇な時にラムバッハの修道院で歌を習っていたから、非常に絢爛豪華な教会の祭典の厳粛な点に、しばしば夢中になったものだ。だから、ちょうど父にとって、小さな村の牧師がかつでそうであったように、私には修道院長が最も地位のある職業であると考えたのも当然であった。

少なくとも一時はこれが事実であった。

しかし、父は自分の喧嘩好きの息子に、演説の才がその子の将来のために何か有望な結論を引き出すために、はっきりしたビジョンを見出すことができなかったので、かれは少年のそのような考えにもちろん理解を示さなかった。

父はこの性質の葛藤(=けんかと演説の才能?)を十分心配しながら見守っていた。

 

(ブロガー解説)

ヒトラーは幼いころは非常に活発な少年だった。いつも外へ出て友達と遊び、傷だらけになって帰ってきて、ヒトラーの母親を心配させた。

学業でも優秀で、ヒトラーは自然と友達の中でガキ大将的な存在になっていった。

ヒトラーはラムバッハの修道院で歌を習っていて、将来は修道院長になりたかったという記述は面白い。遠くまで通るかれの声は幼少期の歌の練習からきているのかもしれない。

しかし、ヒトラー修道院生活も終わりを告げた。ある日、ヒトラー修道院の庭で煙草を吸っているところを見つかったのである。修道増たちはヒトラーを追放した。彼の信仰生活もここで終わったのである。

ちなみに、ヒトラーの通っていた修道院の紋章(修道院長ハーゲンの家紋)がハーケンクロイツかぎ十字)であったという。

【参考文献】

『わが闘争(上):Ⅰ民族主義的世界観』アドルフ・ヒトラー(平野一郎・将積茂訳)1998年出版、角川書店(文庫)25,527ページ

アドルフ・ヒトラー』ルイス・スナイダー(永井淳 訳)2005年出版、角川書店、14ページ

 

楽しく読める!ヒトラーの『我が闘争』4

【同一の血は共通の国家に属する】⑵

しかし、オーストリア税関史の運命は、当時よく「さすらい」だと言われていた。

父はまもなくリンツへ移り、ついにそこで恩給生活にはいった。もちろん恩給生活は

この老人にとって「休息」を意味するものではなかった。貧しい日雇農夫の息子であった父は、若いころ早くも家にいることに耐えられなかった。まだ十三歳になるかならないのに、当時小さかった若者は、リュックを背負い、故郷ヴァルトフィールテルから歩き続けた。「世の中の事情に詳しい」村人が止めたが聞かずに、かれはウィーンへ向かった。そこで手工業を学ぼうとしたのだった。

それは前世紀の五十年代のことだった。

道中で使うことのできる三グルテンの旅費だけを持って、未知の世界へ入ろうとした。痛々しい決意である。

だが、この十三歳の子どもが十七歳になった時、かれは職人試験を済ませたが、満足しなかった。むしろ反対だった。長い年月にわたるそのころの困窮と、いつまでも続くみじめな状態と悲惨さとが、いまや手仕事をまたまた放棄して、何か「もっと立派なもの」になろう、という決心を固めさせた。かつては、この村の貧しい青年には、牧師というものが、人間として到達することのできる最高のものに思えたのだが、ところが視野を著しく拡大させる大都市の中では、国家官史の地位が最上のものに思えた。困窮と悲憤のため、まだなかば子どもでありながら「老成した」大人の不屈な粘り強さで、この十七歳の青年は、新しい決心に凝り固まった。

そして官史になった。

ほぼ二十三年後に、その目的を達成した、と私は思っている。そしてまたこの貧しい青年が、何者かになるまでは愛する故郷の村に帰るまい、とかつて約束してた誓いの前提は、満たされたように思えた。

さて目的は達成した。だが村では、かつての小さい子どものことを思い出す人間は誰もいなかった。そして村は、かれ自身にとって、親しみのないものになってしまった。

だからかれは、五十六歳でついに恩給生活に入った時、この隠居生活で「無為者」として日を過ごすことに耐えられなかった。かれは上オーストリア市場町ラムバッハ近郊に土地を買い、それを管理して、長く働き続けた一生を終え、再び祖先のもとへ帰ったのである。

 

(ブロガー解説)

この段落では、ヒトラーの父親について書かれている。

ヒトラーの父親は無学のまま家を飛び出し、死に物狂いの努力をした結果、国家官史という高い地位につくことができたのである。

この段落はこの後のヒトラーの生い立ちを強調するために書かれたものであると推測する。ヒトラーは画家になるために大学を受験したが二度失敗した。そして困窮していた時に、第一次世界大戦が勃発する。その後、ドイツが敗北し、ヒトラーは小政党であるドイツ労働者党に入党する。そしてついには、「バイエルンの王」として南ドイツでは知らない人はいないという存在にまで上り詰める。

ヒトラーの話にいきなり入るのではなく、似たような経験をした父の話から始めることで、読者に「ヒトラーはとても苦労したのだな。」と印象づけるのである。

ヒトラーの父は暴力的であり、ヒトラーに対して、暴力をふるっていた。だからヒトラーも暴力的になったのだ。」

という戦後の批判は間違いである。

父親は朗らかな性格で、アルコール中毒でもなかったとされる。例え、暴力的だったとしても、当時のオーストリアでは子供への厳しいむち打ちは厳しいものではなく、精神を鍛えなおすというのでむしろ良いこととされていたのである。

この批判は、現在の立場から過去を考えてはいけない良い例である。

 

【参考文献】

『わが闘争(上):Ⅰ民族主義的世界観』アドルフ・ヒトラー(平野一郎・将積茂 訳)平成10年出版、角川書店(文庫)23~25ページ、526ページ

アドルフ・ヒトラー:「独裁者」出現の歴史的背景』村瀬興雄、2007年出版、中央公論新社、84ページ

アドルフ・ヒトラー[1]:1889-1928〇ある精神の形成』ジョン・トーランド(永井淳訳)1991年出版、集英社、37ページ

 

 

楽しく読める!ヒトラーの『我が闘争』3

【同一の血は共通の国家に属する】⑴

ドイツ民族は、自分の同胞(=オーストリアに住むドイツ人)を、共通の国家(=大ドイツ)に包括することができない限り、植民地政策をする権利を持たない。ドイツ国の領域が、ドイツ人の最後の一人にいたるまで収容し、かれらの食糧を確保することができなくなった時にはじめて、自国民の困窮という理由から、海外領土を獲得する権利が生じるのである。その時に鋤が剣になり、戦いの涙から後世のために日々のパンが生育してくる(=戦争で勝利し、食料を確保することができる)。だから私には、この小さな国境の町が、大使命のシンボルであるように思える。

しかし、なお別の観点からしても、この小都市は今日注意を引き付けるようにそびえている。

【以下要約】(今から百年以上前に国家主義者であったヨハネス・パルムが、この地でドイツのために倒れたのである。パルムは同じ仲間であった政府官史に裏切られ、フランスに密告されたのである。)【終了】

このドイツ的殉教の光によって美しく照らされたイン河畔の小さな町に、血統はバイエルン人、国籍はオーストリア人である私の両親が、前世紀の十八世紀の終わりに住んでいた。父は義務に忠実な官史であり、母は家政に専念し、ことに我々の子どもたちにいちも変わらぬ愛情深い世話をしてくれた。この当時のことは、わたしの記憶にはあまり残っていない。というのは早くも数年後、父はイン河を下って、バッサウで新しい地位に就くために、この好ましい小さな国境の町を、もう一度離れなければならなかったのである。かくしてドイツ国内に来た。

 

(ブロガー解説)

いろいろと難しいことがかかれているが、要は「ドイツとオーストリアは再合併されなければならない!」と繰り返し言っているだけである。

第一次世界大戦に敗北したドイツは海外の植民地を奪われた。ヒトラーはその植民地を奪還する前に、まずはドイツ人が生活する地域を統合しようと考えたのだ。

ヒトラーには多くの兄弟がいた。長男のグスタフ、長女のイーダ、次男のオットー、三男のヒトラー、四男のエドムント、次女のパウラの順に誕生した。しかし、ヒトラーとパウラ以外は、幼くして病死した。ヒトラーが母親からの深い愛情を感じたのも、立て続けに子どもを亡くした母親の気持ちを考えれば分かるだろう。

ヒトラーの家は引越を何回も繰り返した。幼いころに引越を繰り返すとその人の生活に影響を与えることはあるだろう。

ヒトラーの幼少期に関する資料は皆無といっていい。

我々は想像する事しかできない。

 

【参考文献】

 『我が闘争(上)Ⅰ民族主義的世界観』アドルフ・ヒトラー(平野一郎・将積茂 訳)
平成10年出版、角川書店(文庫)22,23ページ

『写真でたどるアドルフ・ヒトラー:独裁者の幼少期から家族、友人、そしてナチスまで』マイケル・ケリガン白須清美訳)

2017年出版.原書房

 

楽しく読める!ヒトラーの『我が闘争』2

民族主義的世界観

第一章 生家にて

【生家にて】

今日私は、イン河畔のブラウナウが、まさしく私の誕生の地となった運命を、幸運なさだめだと考えている。というのは、この小さな町は、二つのドイツ人の国家の境に位置しており、少なくとも両国家の再合併こそ、我々青年が、いかなる手段をもってしても実現しなければならない人生の事業であると考えられるからだ!

ドイツ・オーストリアは、母国大ドイツに復帰しなければならない。しかもそれは何らかの経済的考えによるものではない。そうだ、そうだ。例えこの合併が、経済的に考えて重要なことでなくても、むしろそれが有害でさえあっても、なおかつこの合併はなされなければならない。

 

(ブロガー解説)

ヒトラーオーストリアのブラウナウという地域で生まれた。ヒトラーはドイツの独裁者というイメージが大きいあまり、ヒトラーはドイツ生まれだと勘違いする人も多いだろう。

このドイツとオーストリアは両国ともドイツ人が生活している国である。

詳しい説明は割愛するが、なんだかんだあって、同じドイツ人でありながら違う国に住まなければいけないという状態にあった。

当時、ヒトラーだけではなく、多くのドイツ人は両国家が1つの国になることを望んでいた。しかし、第一次世界大戦後、ドイツの復興を阻止しようとした連合国は、ドイツとオーストリアの合併を禁止する条約を締結した。

ヒトラーがドイツとオーストリアは合併すべきだという考えは、収容所に収監された時の考えであり、幼いころから考えていたかは定かではない。

「ドイツ・オーストリアは、母国大ドイツに復帰しなければならない。」という言葉には二つの考え方がある。

1つ目は「オーストリアはドイツの物なのだから、偉大なる大ドイツに合併されよ!」という考え方だ。つまりドイツが主点の考え方だ。

2つ目は「ドイツとオーストリアは合併して、一緒に偉大なる大ドイツになるのだ!」

という考え方だ。つまり大ドイツを共に建国しようという考え方だ。

文章の視点から見ると、1つ目の解釈が合っているように感じる。

しかし、ヒトラーの視点から見ると、2つ目の解釈が合っているようにも感じる。

読者の方は、どちらの考え方に共感するのだろうか?

 

【参考文献】
我が闘争(上)Ⅰ民族主義的世界観』アドルフ・ヒトラー(平野一郎・将積茂 訳)
平成10年出版、角川書店(文庫)22ページ

 

楽しく読める!ヒトラーの『我が闘争』1

【序言】

私の名前はアドルフ・ヒトラー

オーストリアで生まれ、1924年で35歳になる。

そんな私がこの年、ドイツで革命を起こそうとした。俗にいう「ミュンヘン一揆」である。この革命は成功するかに見えたが、裏切りもあり、私の計画は失敗してしまった。

裁判所で禁固刑の判決を下された私は、レヒ河畔のランツベルク刑務所に服役することになった。

そういえば、私が長年活動してきた内容や私の考えを多くの人々が知りたがっていたなぁ。しかし、私はずっと党の演説家として活動していたので、そんな余裕はなかった。刑務所に服役することにはなったが、幸運なことに、その時間を確保することができた。さらにこの時間を使い、私の考えをまとめることができると考え、私は初めて本を書いてみようと思った。

本は二巻構成にし、我々の運動の目標を明らかにするだけではなく、我々の運動の発展の姿も記そうと決心した。こうした方が単純な理論だけを書いている難しい論文よりも、多くのことを学ぶことができるだろうと思ったからだ。

さらにその際私は、私自身の生い立ちを、第一巻と第二巻の理解に必要であり、またユダヤ人が発行した新聞に書いてある私個人に関する嘘偽りを暴く助けになると考え、少しばかり述べておいた。

私はここでこの本を、私を知らない人々ではなく、心からこの運動に従い、この運動で得た知性を用いて、心から啓蒙を求めている私の支持者に向けて書きたいと思う。

人々を説得するためには、書かれた言葉ではだめだ。話された言葉の方が人々を説得できるのである。これは世界の偉大な歴史の出来事を見れば一目瞭然だ。これらは、偉大な文豪家ではなく、偉大な演説家によって達成されている。

では、私が今、書こうとしているこの本は意味がないのか?

安心してほしい。私はこのことを十分に知っている。

もちろん、本当は私自身が話した方がいいのだが、私の人生はそんなに長くはない。私の考えが忘れ去られないためにも、私の考えを規則的、統一的に伝えるために本を書く必要があるのだ。そのため、この二巻をこれから行う様々な活動の基礎として作り上げたいのである。

(続く)

 

(ブロガー解説)

ヒトラーが起こした「ミュンヘン一揆」はドイツでは国家反逆罪にあたり、普通なら死刑である。

その後のミュンヘン裁判はヒトラーの巧みな演説が全国に知れ渡ったきっかけにもなった。

私はその演説の中で心に響いたものがある。

「11月の犯罪者の革命は処罰されず、真のドイツを取り戻そうとする革命は処罰されるのか?」という言葉だ。

ドイツは第一次世界大戦で敗北したが、国民の中には「共産主義者の革命によってドイツは敗北したのだ。」という考えが特に右翼や軍部に根強く存在した。

革命を起こした人たちを革命がおこった月にちなんで「11月の犯罪者」と呼び、この陰謀論を「匕首伝説」という。

「ドイツにとって悪い革命は罪に問われず、真のドイツを取り戻そうとする革命は失敗したことで処罰されるのか!」というヒトラーの主張に同感した人は多くいただろう。

「書かれた言葉より、話された言葉の方が人々を説得できる」という考えに注目してほしい。このことから、ヒトラーは論理的に演説するのではなく、感情的に演説することを意識していたのが分かる。

皆さんも似たような出来事があるのではないか?

「私の人生はそんなに長くはない」と書いてある通り、ヒトラーは自分の健康を非常に心配していた。菜食主義を徹底し、酒とたばこもほとんど嗜まなかった。第二次世界大戦が勃発する前に遺書を書いていたことから、ヒトラーは心配性であったといえる。

 

【参考文献】

我が闘争(上)Ⅰ民族主義的世界観』アドルフ・ヒトラー(平野一郎・将積茂 訳)

平成10年出版、角川書店(文庫)3~4ページ