オクイチの日記

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楽しく読める!ヒトラーの『我が闘争』4

【同一の血は共通の国家に属する】⑵

しかし、オーストリア税関史の運命は、当時よく「さすらい」だと言われていた。

父はまもなくリンツへ移り、ついにそこで恩給生活にはいった。もちろん恩給生活は

この老人にとって「休息」を意味するものではなかった。貧しい日雇農夫の息子であった父は、若いころ早くも家にいることに耐えられなかった。まだ十三歳になるかならないのに、当時小さかった若者は、リュックを背負い、故郷ヴァルトフィールテルから歩き続けた。「世の中の事情に詳しい」村人が止めたが聞かずに、かれはウィーンへ向かった。そこで手工業を学ぼうとしたのだった。

それは前世紀の五十年代のことだった。

道中で使うことのできる三グルテンの旅費だけを持って、未知の世界へ入ろうとした。痛々しい決意である。

だが、この十三歳の子どもが十七歳になった時、かれは職人試験を済ませたが、満足しなかった。むしろ反対だった。長い年月にわたるそのころの困窮と、いつまでも続くみじめな状態と悲惨さとが、いまや手仕事をまたまた放棄して、何か「もっと立派なもの」になろう、という決心を固めさせた。かつては、この村の貧しい青年には、牧師というものが、人間として到達することのできる最高のものに思えたのだが、ところが視野を著しく拡大させる大都市の中では、国家官史の地位が最上のものに思えた。困窮と悲憤のため、まだなかば子どもでありながら「老成した」大人の不屈な粘り強さで、この十七歳の青年は、新しい決心に凝り固まった。

そして官史になった。

ほぼ二十三年後に、その目的を達成した、と私は思っている。そしてまたこの貧しい青年が、何者かになるまでは愛する故郷の村に帰るまい、とかつて約束してた誓いの前提は、満たされたように思えた。

さて目的は達成した。だが村では、かつての小さい子どものことを思い出す人間は誰もいなかった。そして村は、かれ自身にとって、親しみのないものになってしまった。

だからかれは、五十六歳でついに恩給生活に入った時、この隠居生活で「無為者」として日を過ごすことに耐えられなかった。かれは上オーストリア市場町ラムバッハ近郊に土地を買い、それを管理して、長く働き続けた一生を終え、再び祖先のもとへ帰ったのである。

 

(ブロガー解説)

この段落では、ヒトラーの父親について書かれている。

ヒトラーの父親は無学のまま家を飛び出し、死に物狂いの努力をした結果、国家官史という高い地位につくことができたのである。

この段落はこの後のヒトラーの生い立ちを強調するために書かれたものであると推測する。ヒトラーは画家になるために大学を受験したが二度失敗した。そして困窮していた時に、第一次世界大戦が勃発する。その後、ドイツが敗北し、ヒトラーは小政党であるドイツ労働者党に入党する。そしてついには、「バイエルンの王」として南ドイツでは知らない人はいないという存在にまで上り詰める。

ヒトラーの話にいきなり入るのではなく、似たような経験をした父の話から始めることで、読者に「ヒトラーはとても苦労したのだな。」と印象づけるのである。

ヒトラーの父は暴力的であり、ヒトラーに対して、暴力をふるっていた。だからヒトラーも暴力的になったのだ。」

という戦後の批判は間違いである。

父親は朗らかな性格で、アルコール中毒でもなかったとされる。例え、暴力的だったとしても、当時のオーストリアでは子供への厳しいむち打ちは厳しいものではなく、精神を鍛えなおすというのでむしろ良いこととされていたのである。

この批判は、現在の立場から過去を考えてはいけない良い例である。

 

【参考文献】

『わが闘争(上):Ⅰ民族主義的世界観』アドルフ・ヒトラー(平野一郎・将積茂 訳)平成10年出版、角川書店(文庫)23~25ページ、526ページ

アドルフ・ヒトラー:「独裁者」出現の歴史的背景』村瀬興雄、2007年出版、中央公論新社、84ページ

アドルフ・ヒトラー[1]:1889-1928〇ある精神の形成』ジョン・トーランド(永井淳訳)1991年出版、集英社、37ページ